とある一大学生の戯言語

社研とコンピュータ系とスポーツ系サークルを掛け持ちしているある意味稀有な存在

谷崎潤一郎「陰翳礼讃」について

 

「日本の文化は”翳”というものを貴ぶものである」という主張を,豊富な具体例を交えつつ述べる,というのがこの本の大まかな内容である.確かに,谷崎がこの文章を書いた80年ほど前の事例だけでなく,現在の例だけでも,十分にこの主張は納得できる.今日でも,我々日本人はいかにも明朗快活とした女性よりも,どこかに翳を孕んだ,儚げな女性の方に「美しさ」を感じやすい.また,煌々とした太陽の光の下よりも,竹藪から漏れる光に身を置いた方が落ち着くものだ.

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(「色づく世界の明日から」より月白瞳美.今期のアニメのヒロインで一番”翳”のあるヒロインかもしれない)

 

しかし,なぜ我々日本人は,”翳”というものを尊ぶのだろうか.それは,日本人の思想の根底に流れる「東洋的な思想」がそもそも,”陽”より”翳”に重点を置いたものだからだ.ここで,鈴木大拙の一説を引用する.「”光あれ”という心が,神の胸に動き出さんとする,その刹那に触れんとするのが東洋民族の心理であり、、、欧米的心理は”光”が現れてからの事象に没頭する」

 

また,「間」という言葉のことも忘れてはならない.「光」が主体である欧米的思想では,この「間」というものの存在を一切許さないが,「光」が出現しようとするその瞬間,いやそれ以前をも範疇に入れる東洋的な思想ではこの「間」がいたるところに出現しうる.

 

個人的主観であるが,日本人はこの「間」というものにとりわけ注意を払う,つまり,光が落ち込んだ翳などの「間」に永遠の静寂などをしばしば見出す民族のように思える.これは,古い寺の庭で,ししおどしがなった後の静寂を想像してもらえれば容易に納得してもらえるだろう.ゆえに.谷崎が言う通り,我々日本人は”翳”を貴ぶのだ.

 

今日,80年前よりもさらに,日本において”光”だけを見て,その裏の”翳”に想いを馳せない傾向が強まっている.しかしながら,長い時間をかけて形成された民族の特性というものは,その形成にかかった時間と比例して,容易にぬぐい去れないものだ.この文章を読んだあなたが,今からでも自分の”翳”への感性に気付いていただけたなら私にとってこれ以上の幸はない.