とある一大学生の戯言語

社研とコンピュータ系とスポーツ系サークルを掛け持ちしているある意味稀有な存在

Vtuber に関するコラム〜Vtuberによってどのような変化がコミュニケーションへもたらされるか?

 

はじめに、「Vtuberに関連する諸技術によるコミュニケーションの変化」を書いていきたいと思う。しかし、その前に少し、一般的に言える「科学技術による影響」とはどのようなものか、ということについて考えてみよう。

 

新しく開発された科学技術は、まず「各人の間に存在する能力や環境などの差を縮小するような」影響を社会にもたらしていく。

そして、ある技術が開発もしくは導入された結果、参入障壁が下がり、より多くの人がその分野や領域へと参加し始める。それによって、その技術が存在する前よりも遥かに多様なモノが産み出されて、社会に溢れていき、それがまた新たな技術を開発するための刺激となっていくのだ。

 

極論すれば、人類の歴史とはこのサイクルの繰り返しであり、そのような例は歴史上に数えきれないほどに存在する。グーテンベルクがもたらした活版印刷で例をあげれば、活版印刷は、「本を複写させるための人間を雇えうるだけの財力」という各人の能力の差を是正した結果、より多くの知識人が本を出版するようになり、活版印刷以前とは比べものにならない量の本が出版されるようになった。

 

より卑近な情報技術で例をあげれば、「初音ミク」に代表されるボーカロイド技術は、「ある程度の歌唱力を有すること、また、そのような人に自作の曲を歌ってもらえる、という環境下にいること」という差を縮小した。その結果、DTMなど様々な分野の人や今まで曲を作ってないような人もボーカロイドを用いて楽曲を製作するようになり、それまでなかったような独特で多様な曲が多数生み出され、今のようなボーカロイド文化が形成されるに至った。

 

 さて、本題である「Vtuberやその諸技術が及ぼすコミュニケーションへの影響」を考えたときでもここまでの文脈はそのまま成り立つ。

つまり、「Vtuberやその関連する諸技術」は、「コミュニケーションに参加するために必要な能力の差」―例えば、容姿や声質、体格、性別などという、ある意味究極的に残酷な格差ーを縮小する。その結果、他人の考えを聞く際に、その考えの内容よりも、その人の容姿や性別などの内容とは直接関係のない要素で、「その考えが妥当なものかどうか」を決定しがちである、という悪習を是正し、今よりも自由で活発な議論を可能にすることだろう。

 

 

この変化は、「Vtuber」コンテンツの流れの中で発生しつつある、もしくはもう発生しており、今はその変化が加速している段階かもしれない。「バーチャルのじゃロリ狐娘YouTuberおじさん」のねこます氏は、「Panora」のインタビューで

 

「要はゴツい騎士とかに囲まれると圧迫感があるのに、同じ可愛い女の子同士ですと、お互いに惹かれてすごく打ち解けやすくて平和みたいな。だからかわいいとか女の子の概念みたいなのは、心のATフィールドを取り払う効果があるんです。マツコデラックスさんが話してきたらなんでも言っちゃうみたいな感じがあるじゃないですか。あんな感じで女性らしさや可愛らしさは、打ち解け合う力を持っている。生物学的に男性、女性ということよりは、女性的な特徴を持つことの方がコミュニケーションに都合がいいんです。」

 

と述べ、実際に、彼女(?)が動画で嘆いた「コンビニバイトは世知辛いのじゃ〜」という言葉は多くの人の元へ届いた。逆に、現実世界のねこます氏のような中年男性がYoutube上で「コンビニバイトは世知辛い」と嘆いたとしても、その嘆きはネットの海の中へと消えるのみだろう。現実での身体という要素により、ネットの海へと沈んでいくしかない言葉がサルベージされ、ある人の元に届くようになる、そうして新しいコミュニケーションが形成されていく。その影響は計り知れない。

 

次に、「Vtuber」というコンテンツやメディアがコミュニケーションに及ぼす影響を考えてみよう。「Vtuber」の「実質的空間(いわゆる仮想空間)に、現実世界の自分とは無関係な”自分”を存在させる」という点に着目すれば、それによって「”現実世界で他者から見える自分”というメディアに制約されない」ような言動や行動が実質的な空間で取れるようになり、「Vtuberの関連技術の影響」を考えた時と同じく、コミュニケーションがより多様なものになると考えられる。

 

現在、私たちは自由な発言や行動が取れる権利を持っているが、実際に「自由に」発言や行動ができるか、というとそうではない。各人には、他者から見える人格や身体など様々要素から予想されるような言動や行動の幅があり、それに反するような言動や行動は取りにくいのが現実だ。

わかりやすく言えば、私たちは「キャラに合わない」言動や行動は取りにくい、ということである。

 

例えば、容姿や言動からでは内気な女の子に見えるが、本当は「輝夜月のように破天荒に振る舞いたい」と考える女の子。幼い頃から外からの「自分」と内面の自己対話での「自分」が異なった人(from:個人バーチャルYoutuberという「自身のイデアユリイカ7月号 届木ウカ)もしくは単純に、「男性だけど、美少女になって美少女とイチャイチャしたい」と望んでいる人。誰もが、程度の差こそ違えど、「外から見える自分」と「自分がなりたい自分」「自分が本当だと思う自分」とは異なっていて、後者を表現できない現実にもどかしさを感じているだろう。

 

そんな「現実世界では晒すことができない自分」に対して「実質的空間上で動く実体」を提供し(これを界隈では「魂の解放」と呼ぶ)、その実体を用いた種々のインタラクションを可能にさせるVtuberというコンテンツ、メディアは、現実世界ではどうしても介さないといけない、絶対的な「現実世界で他者から見える自分というメディア」を無視したコミュニケーションを可能とさせる。

 

 

ここまで「Vtuberと関連する諸技術は、コミュニケーションへ参加するための障害を少なくし、コミュニケーションを多様で自由なものにする」と書いてきたが、「2ch (現5ch)やTwitterをはじめとするSNSなどのインターネット上でも、現実世界の身体や、キャラを無視したコミュニケーションが取られている。それは確かにコミュニケーションを自由で多様なものとしたのかもしれないが、根拠のない誹謗中傷などが発生するなど好ましくない影響も出ている」と言う人がいるかもしれない。

 

しかしながら、「Vtuber」と言うコンテンツ、メディアはこれまでインターネット上で行われていたコミュニケーションで生じた、このような問題を防ぎうる可能性がある、と私は考えている。

 

確かに、2chやSNSで行われていたコミュニケーションは、その多くが「匿名性」、つまり「現実世界における私たちの社会的立場」と言う格差、障壁を無視している、という特徴がある。それによって自由な発言が大幅に増え、コミキュニケーションが自由で多様なものになった。しかし、発言に対する責任が限りなく軽いものとなり、その結果として普段では口に憚れるような誹謗中傷でもコミュニケーション上で飛び交うようにもなったのである。

 

しかしながら、この前の章を思い出してほしいのだが「Vtuberにもキャラがある」、つまりVtuberは、「匿名のアカウントが持ち得ない、キャラクターコア、キャラクターイメージを保有」していて、それを動画などでユーザーに広めるために存在している。ゆえに、自身の「キャラクターコア」と矛盾し、「キャラクターイメージ」を著しく損ねるような発言をするなどの行為を取ることが不可能なのだ。誰も、差別的発言をするキズナアイを見たくはないだろうし、それがゆえに、彼女もそのような発言はできないだろう。(そもそもしようとしないだろうが)要するに、「Vtuber」というメディア上で行われるコミュニケーションは、匿名性のものより遥かに健全なものとなる可能性が高い。

 

また、もしかすると「他人に対する誹謗中傷」などを目的としたVtuberもこの先現れるかもしれない、と考える人もいるかもしれない。しかし、そのようなVtuberはすぐに「誹謗中傷を目的としている」と言うイメージがついてしまい、健全なコミュニケーションを行う集団から締め出されてしまうだろう。

 

このようなVtuberの特徴は、言ってしまえば「Vtuberはそれ自身の性質として、発言に責任が発生する」ということなのだ。「現実世界での様々な制約から逃れて」これまでよりコミュニケーションを自由で多様なものにすると同時に、その性質から、「匿名のコミュニケーションでは考えられていなかった、発言への責任」を併せ持つ「Vtuber」という存在。現実と実質と仮想が入り混じった空間で行われる遥かに自由で多様なコミュニケーションは、私たちに驚くほど豊かな刺激をもたらしてくれるだろう。