とある一大学生の戯言語

社研とコンピュータ系とスポーツ系サークルを掛け持ちしているある意味稀有な存在

Vtuberに関するコラム1〜Vtuber,キャラクター,ネカマの違い

本論では、よく抱きがちな「Vtuber,アニメなどのキャラクター,ネカマはどう違うのか」という問題について扱う。議論して行く前に、ここで扱う、前述の三者とそれに関連する用語を詳しく述べておこう。

 

ここで、「キャラクター」とは、後述の「“キャラクターコア”と“キャラクターイメージ”の和」、「キャラクターコア(名前はなんでもいいです)」というのを、「キャラクター自身についての人格、外見、社会的関係などの定義」、また、「キャラクターイメージ」を、「“キャラクターコア”から想起される、人格、外見などのイメージ」とする。例として「キズナアイ」を用いれば、「キャラクターコア」というのは、「キズナアイ」という存在それ自体、「キャラクターイメージ」というのは、「ピンク色で、双葉形のカチューシャをつけた、16歳くらいの女の子で、性格は明朗快活、でもたまに毒を吐いたりする…」といったようになるだろうか。

Vtuber」というのは、「主にYoutubeなどのネット上において前述の“キャラクターイメージ”を、受け手に印象付けることを目的とした“キャラクター”」とし、「ネカマ(“ネットおかま”の略称)」を、「ネット上でのコミュニケーションを目的とした、男性が女性を騙ったアカウントなど」とする。

 

 さて、本論では、一見関係が理解しにくい三者に、あえて「生物性」という概念を定義することによって、この三者の違いを明らかにして行く。

 

もちろん、この三者は我々が一般にイメージするところの生物の特徴である「自己の遺伝子を複製し、環境へと広めて行くことを目的とした物理的存在」とは異なる。それゆえに、「キャラクターイメージ」が他者全てから喪失すれば、その「キャラクター」の存在は消滅したも同じ、という「キャラクター」の特徴に着目し、一般の「生物」での「遺伝子」を、“キャラクターイメージ”で置き換えて考える。また、「生物」での「自己の遺伝子を複製し、環境へと広めていく」と言った行為を、「前述の“キャラクターイメージ”を、動画などのコンテンツを用いて、できるだけ多くの人にその“キャラクターイメージ”を想起できるようにする」ことに置き換える。三者に、この仮想的な「生物性」を定義することによって、どのような議論が展開できるだろうか。

 以下に、三者の「生物性」を定義した結果を示す。

 

Vtuber

キャラクター

ネカマ

“遺伝子”

△~×

“遺伝子を広める”

×

×

 

詳しく見てみよう。「Vtuber」には、もちろん“キャラクターイメージ”も”キャラクターコア”も存在しているし、「Vtuber」は”自分が望む時に“、キャラクターイメージを動画などのコンテンツなどを用いて広められる。つまり、「自律的に自己の遺伝子を広められる」という点で、より高度な生物に近い、と言えるだろう。

 

 一方、「キャラクター」には、当然、“キャラクターイメージ”は存在するが、“自ら望んで”自らのイメージを広められない、という点で「Vtuber」と異なる。「キャラクター」が自己の“キャラクターイメージ”を広められるのは、アニメ、漫画、小説、などのキャラクター自身ではない「他者が製作した」コンテンツを通じてのみである。

「キャラクター」を、一般的な「生物性」を満たす物理的存在で例えるならば、専ら他者の細胞を用いてしか自己の遺伝子を広められない「ウイルス」などが適当だろうか。

 

 また、「ネカマ」は、もともとが「他者を騙した上で、コミュニケーションを取ることを目的として作られた存在」なので、上記の二者のように、明確な“キャラクターコア”も“キャラクターイメージ”も存在しないものが多い。Twitterなどで、他者をより騙すために趣味や経歴などを詳しく設定した「ネカマ」も存在するが、やはりその“キャラクターコア”や“キャラクターイメージ”は上記の二者と比べてかなり弱いと言わざるを得ない。そして、自己の”キャラクターイメージ“を広めていく意思や能力も「Vtuber」と比べて低く、そもそも積極的にそれを行う必要性がないことも多い。故に、「ネカマ」は生物というよりも、コミュニケーションのための「道具」として考えられるだろう。

 

これまでに、一見無関係な三者に、あえて「生物性」を定義することによって、その違いを明らかにしようと試みた。後のコラムでは、「Vtuberがもたらすだろうコミュニケーションの変化」を論じていくことにする。